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ノジマ社長のしくじり経営術「挑戦する会社を作ろう」

今回から始まるこのコーナーで最初に「しくじり」をシェアしてくれるのは、デジタル家電専門店ノジマ社長の野島廣司さん(71)です。相模原市の「街の電気屋さん」だったファミリービジネスを、お客さんのニーズにとことん寄り添う「コンサル接客」を武器に、関東を中心に約210店を展開するまでに拡大させました。

社内の挑戦を促すため、「自分の失敗はできる限りオープンにする」という野島さん。独断専行型のリーダーシップで傾いた電気店を立て直したものの、お家騒動に直面して、会社を事実上追い出された時期がありました。その「しくじり」から得たものとは、何だったのでしょうか。

ノジマの野島廣司社長=横浜市西区で、幾島健太郎撮影
ノジマの野島廣司社長=幾島健太郎撮影

#しくじり
#イノベーション
#マインドセット
#お家騒動
に課題を感じている方々にお薦めです。

皆さん、失敗するのって嫌ですよね。でも、アインシュタインはこんな言葉を残しています。

「失敗や挫折をしたことがない人は、何も挑戦したことがない人だ」

そう、失敗は挑戦の証しなのです。失敗から立ち上がり、それを糧に次の挑戦に踏み出す。「しくじり2.0」は、そんな生き方を実践する方々にお話を聞いていきます。

本当は「サラリーマンになりたかった」

ノジマの前身である野島電気商会は、私の父母が経営する「街の電気屋さん」から始まりました。当初は非常に順調だったんですけれども、夫婦仲が悪くなって別居状態になったんです。(それに伴って)売り上げがどんどん落ち、借金も膨らんで資金繰りも危ないような状態で。大学生の頃には、年末のお金が支払えないというので、僕も集金に飛び回りました。

追い詰められた状態でした。僕は小学校の作文に「(家業があると)夫婦仲が悪くなりそうだから、サラリーマンになりたい」と書いたんです。しかし、母親と9歳年下の弟、従業員の生活を守るには、家業を継がざるを得なかったのです。

とにかく販売をしないと全てのことが始まらない。まずは訪問販売をしました。

ところが、僕は訪問販売が好きじゃなかったんです。押し売りみたいで。良い商品を持って行くんですけれども、それがお客さんにピッタリ合うかどうか。売れても何となく気持ちがよくない。
その後ろめたさが残ったので、オーディオ販売に変えようと思ったわけです。オーディオが好きだったのは、父親と母親がガタガタしている時なども、音楽を聴くと嫌なことが忘れられましたから。

野島電気商会。相模原市の「街の電気屋さん」だった=1970年ごろ
野島電気商会。相模原市の「街の電気屋さん」だった=1970年ごろ(ノジマ提供)

お家騒動勃発…閑職に追われる

1974年に店舗の2階を改装して始めたオーディオコーナー。実際に、音質や使い心地を確かめてから買える販売手法が支持を集め、遠くからもお客がやって来る人気店になります。
経営危機を脱して飛躍のきっかけをつかんだ野島さんは、オーディオやAV機器に加え、世に出始めたばかりだったパソコン販売にもいち早く乗り出して店舗網を拡大。かつて年間数千万円に過ぎなかった売上高は15年ほどで、150億円に迫るところまで急成長します。伸びていく一方に思えた野島さんでしたが、「お家騒動」という試練がやってきます

それまではずっと、取締役課長ということで会社を引っぱってきました。母親が社長でしたが、会社には(課長より上の)部長がいるわけでもなく、幹部社員も係長として、すべて僕のもとにぶら下がっていました。税務署も銀行も僕のところに話に来ましたから、実質的には僕が社長だと思っていたんです。

ところが、1991年に社内で反乱が起きた。社長だった母親が突然、私を課長から専務にして、弟を新たに常務に据えて社員たちは常務が統括するという組織に変えたんです。

その時までは、僕が直轄で店舗を運営して、業績はずっと伸びてきていました。それなのに権限も部下たちも奪われ、僕は閑職に祭り上げられてしまったわけです。店長ら幹部社員たちも、係長だった人が部長に昇進したりして、母親と常務の方になびいていきました。最初は「あいつらは分かっていない」「こんちくしょう」と怒りを感じ、「こんな会社辞めてやる」と思っていました。

野島廣司さん(右)と母絹江さん=1994年
野島廣司さん(右)と母絹江さん=1994年(本人提供)

私は読書に打ち込みました。「逆境を生きる」をはじめ、城山三郎さんの本をたくさん読みました。徳川家康を描いた小説も好きでした。(重臣の)石川数正に裏切られる場面では涙が出ました。

そうする中で、どうやら「僕が悪かった」ということが分かってきた。それまでは、僕が(店舗運営の)だいたいのことを決めて、店長たちはその通りにやってくれればいい。そんな店長が100人いれば、売り上げは1000億円に行くぞと計算していました。

しかし、よく考えてみると、僕の独断専行でうまくいっていたように見えたけれど、僕は社員たちの心をつかめていなかった。人材も育てられていなかった。社員たちが母親や常務の方になびいていったのは、その表れでした。

変化の時代を生き抜くために「常にしくじりを」

やり手の野島さんが閑職に追いやられたことで、会社の業績は急速に悪化していきます。1992年秋のある晩、自宅にいた野島さんのもとに店長らが集まり、復帰を要請します。その結果、野島さんは全体を統括する役割に返り咲くことになりました

体制はかつての形に戻りましたが、僕の頭の中はもうゴロンと変わっていました。人を育てるにはどうしたらいいのか考えるようになったのです。

社員たちに経験を積ませるため、新しく会社を10社ほど設立して経営を任せたこともあります。これまで自分なりに人を育ててきたと思っていますが、それでも、まだ完璧に育てられるとは言えない。それが現状の私のしくじりです。

しくじりは間違いなく永遠に起こります。どうしてかと言えば、世の中はすごいスピードで変わっています。しかし、我々はその中につかっているので、変わっていることを実感できない。マニュアルを作って、その通りにやっていれば一時期はいいんですけど、(世の中が)大きく変わった時にはどうにもならないというのが僕の思いです。

常にしくじりをしながら、変化していかないといけない。自分からしくじりを起こしていかないといけない。いろいろ失敗をしても、それを取り返した時に成長したと思えればいいわけです。

入社式で新入社員と懇談する野島廣司さん(中央)=2022年4月1日
入社式で新入社員と懇談する野島廣司さん(中央)=2022年4月1日(本人提供)

失敗をオープンにして挑戦する人材を育てる

当社は「全員が経営者になれ。挑戦をしてくれ」というスタイルです。ですから、今はみんなに結構やりたい放題させているんですよ。社内ではモグラたたきのようにしくじりが起こっています。

僕は多くの場合、「地位は人をつくらない」と考えています。高い地位に就くと、自分が偉くなったような気になって、誤った決断をしても、それをどうやって隠すかを考えてしまう人が多いのではないでしょうか。

ファミリービジネスの方々や、リーダーになろうとするビジネスパーソンの方々には、自分から失敗をオープンにしないといけないとお伝えしたい。そうでないと、部下たちは自らの失敗をオープンにせず、挑戦もしなくなってしまう。

私は常に失敗し続けています。それをオープンにすることで、人材を育てることになる。人によって、能力や適材適所というものはあります。しかし、しくじりの後、自ら努力して良い状態をつくれる人を会社として認めていく。それが重要だと思っています。

失敗は挑戦の証しです。失敗から立ち上がり、それを糧に次の挑戦に踏み出す。この連載「しくじり2.0 みんな失敗して大きくなった」では、そんな生き方を実践する方々にお話を聞いていきます。

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