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「下積み」「修行」は通用しない。職人じゃない左官屋のアトツギが、新時代の若手・女性職人育成術を編み出すまで

東京都文京区の「原田左官工業所」は、女性や若者が活躍する左官屋さんです。3代目経営者の原田宗亮(むねあき)さんは、建築業界にありがちな「技術は見て覚えろ」式の職人育成法を大きく見直し、女性や若者が働き続けられる会社に作り替えることで、デザインを武器にした「提案型左官」の道を突き進んでいます。1000年以上前の奈良時代には既に存在していたという左官業。原田さんの「変革」を追いかけます。 

土佐漆喰(しっくい)を用いて原田左官工業所が壁、床、天井を同じ素材で仕上げた=同社提供
土佐漆喰(しっくい)を用いて原田左官工業所が壁、床、天井を仕上げた=同社提供

原田左官工業所は、父宗彦さんが経営していた頃から、業界では「いっぷう変わった左官屋さん」として知られていた。

左官職人は、技術習得のための長年の修業と、壁を一気に塗りあげる体力が必要で、長年、誰もが「男の職場」と思い込んできた。そこに新風を巻き起こしたのが、アイデアマンだった宗彦さんだ。1989年、事務員の女性が「私も壁を塗ってみたい」と言い出したのをきっかけに、女性職人の採用・育成を開始。「ハラダサカンレディース」という女性職人だけのチームを組み、テレビや雑誌で盛んに取り上げられた。

「うちは普通の左官屋ではないんだな」。当時、中学生だった宗亮さんにとって強烈な印象になった。

原田左官工業所の原田宗亮社長。ショールームには、左官職人が仕上げた壁の見本を展示している=東京都文京区で、手塚耕一郎撮影
原田左官工業所の原田宗亮社長。ショールームには、左官職人が仕上げた壁の見本を展示している=東京都文京区で、手塚耕一郎撮影

もっと幼い頃、会社と自宅は同じ建物だった。地方から出てきたばかりの職人さんの中には住み込みの人もいて、毎日、一緒に食卓を囲んだ。どこまでが会社で、どこからが自宅なのか、はっきりした境目はない。左官はまさに「家業」で、自宅に出入りする職人さんは、それを手伝ってくれる人たちという存在だった。

父から「継げ」と言われたことは一度もなかった。しかし、3人きょうだいの長男だったから、何となく「自分が継ぐんだろうな」と思っていた。

会社を創業した祖父辰三さんのことをずっと見てきた祖母が、たまに声をかけてきた。「お前は左官屋を継いだ方が良い」。かと思えば「勤め人になった方が良い」と言われることもあった。

どうやら、仕事の受注が順調な時と不調な時とで、祖母の言うことは違っているようだったが、子ども心に「商売は良いときも悪いときもあるんだな」と感じていた。

原田宗亮さんが幼い頃の「原田左官工業所」=東京都北区で1993年、同社提供
原田宗亮さんが幼い頃の「原田左官工業所」=東京都北区で1993年、同社提供

大学は建築や設計関係ではなく、経済学部に進んだ。卒業後に選んだ就職先も、建築とは関係のない東京・神田の樹脂加工メーカー。自分がいずれ継ぐ原田左官は、女性職人を育成していること一つとっても、「普通の左官屋」ではない。建築の世界でいくら経験を積んでも、そんないっぷう変わった原田左官を経営していくことはできないと考えたからだった。

職人経験「ほぼゼロ」実家の番頭に

「ものづくり」を学ぼうと思い、入社した樹脂加工メーカーでは、携帯電話やデジタルカメラに使う部品の営業で、大手電機メーカーの担当者と付き合った。入社して3年目のある日、父宗彦さんから連絡が入った。「番頭さんにお前と同世代の若者を起用する。一緒に働いたらどうだ」

左官屋さんの番頭は、会社の要だ。元請けの建設会社から仕事を取ってきて、どんな壁に仕上げるのか細かな仕様を決め、価格交渉もする。そのうえで工事のスケジュールを組み、その日、何人の職人を現場に派遣するかを差配し、工事完了後は代金の集金まで担当する。

現場の職人を取りまとめ、会社を回す社長の右腕のような存在である番頭に若手を起用する。それを機に、会社全体の代替わりを進めるのが、宗彦さんの狙いだった。このタイミングで原田左官に入社すれば、後継ぎになることが確定する。2000年4月。26歳の宗亮さんに迷いはなかった。

半年間の見習い期間を経て、社内に3人いる番頭の一人になった。本当は、まず左官の技術を身につけたかったが、会社の事情が許さなかった。番頭は会社にとって重要な役職ではあるものの、「いつまでも現場にいたい」と考える職人が多い社内では不人気なポジションで、なかなか成り手がいないからだ。

職人の多くは自分よりずっと年上で、現場経験で言えば天と地ほどの開きがある。その職人たちに「明日の現場は2人でこなしてほしい」「他にも現場があるから3人までしか出せない」などと指示するのが番頭の仕事だ。

原田左官工業所に入社後、設立30周年の式典であいさつする原田宗亮さん(左奥)=2000年、同社提供
原田左官工業所に入社後、設立30周年の式典であいさつする原田宗亮さん(左奥)=2000年、同社提供

「若造の言うことは聞きたくない」「現場のこと、何も分かってないくせに」「仕事の見方が甘いんだよ」。左官職人の経験がほとんどない自分が番頭を務め、やがて社長になることへの反発もあってか、そんな陰口が聞こえてきた。

職人の反発も理解はできた。仕上がりに責任を持つ職人としては、余裕を見てできるだけ多くの職人を現場に連れて行きたい。しかし、それでは職人を回せない現場も出てきて、工期通りに終えられなくなる。現場の事情をくみ取りながら、会社をどう回していくか。いきなり難題に向き合うことになった。

「借入金を返すのに何百年」…変革を決意

番頭になって驚いたのは、事務所にパソコンが一台もなかったことだ。当時、社員は職人も含めて30人ほどだったが、見積書を手書きで作成するベテラン社員が1人、その隣で電卓をたたいて検算する社員がもう1人。元請けの建設会社まで半日かけて現場の図面を取りに行き、ファクスを使う時でも必ず先方に「ファクスを送った」と電話する。前の会社では大手電機メーカーにも出入りしていたから、まるでタイムスリップしたような気持ちになった。

まずは、見積書をエクセルで作り始めることにしたが、担当のベテラン社員は「絶対にやりたくない」と言い張った。他の人に任せることもできたが、それはしなかった。ベテラン社員の仕事を取り上げることになってしまうし、その社員がパソコンを覚えてこそ、業務の効率化になると考えたからだ。

辞書機能で「こ」と打てば「コンクリート」と入力できる設定にすると次第に操作を覚えてくれ、やがてはメールも使い始め、インターネットで新しい材料を検索するぐらい、パソコンを駆使するようになっていった。

こうして社内のIT化を進めていったものの、それは問題の一端に過ぎなかった。パソコンの導入ひとつ取っても、なぜ左官屋はそれまで時代の変化に対応してこなかったのか。元請けの建設会社に顔つなぎをしておけば一定の仕事はいつも確保でき、食うのには困らなかったからだ。来た仕事をきっちりと仕上げればいい。待ちの姿勢でいても経営が成り立っていたのだ。

原田左官工業所で働く女性左官職人=同社提供
原田左官工業所で働く女性左官職人=同社提供

しかし、問題は見え始めていた。月に100件前後の左官工事をこなしていたが、資金繰りはいつも楽ではなかった。どんぶり勘定だったから、各月の売り上げが確定するのは2~3カ月先。工事完了後に値引きを要請されることもあったし、代金の入金は4カ月後というのが当たり前だった。

「良い仕事をしていれば、金は後からついてくる」という職人らしい考え方から、取引先からの入金確認が甘く、その間に取引先が倒産して貸し倒れになることも少なくなかった。こうした貸し倒れを除けば、決算はいつも黒字を確保していたが、毎年、年の瀬には「今年はなんとか終わったが、来年は大丈夫だろうか」と不安な気持ちになった。

そして、2006年。年間の利益が100万円にまで落ち込んだ。バブル時の設備投資も重荷になって、年間売上高6億円と同じぐらいの借入金を抱えていた。「この利益から借り入れを返していくとすると、何百年もかかってしまう」。会社を大きく変革すべき時が来ていた。

わたしのファミリービジネス物語」では、地元に根ざして、自らの力を磨くファミリービジネスの経営者や後継者、起業家の方々を紹介していきます。波瀾(はらん)万丈の物語には、困難を乗り越える多くのヒントが詰まっています。
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追い詰められて見えた「左官職人にしかできない仕事」

さまざまな仕上がり見本を手にする原田左官工業所の原田宗亮社長=東京都文京区で、手塚耕一郎撮影

いくら仕事をしても、利益が残らない。こうした状況に拍車をかけたのは、2008年9月に発生したリーマン・ショックに続く不況だ。ビルから住宅まで建築件数が落ち込んだのに加え、コスト削減のため、左官という手仕事ではなく、工業製品であるビニール製壁材を採用する動きがさらに強まった。

左官職人が壁を塗ると、1平方メートル当たり6000円前後の費用がかかるのに対し、ビニール製壁材なら1500~2000円と、3分の1で済む。どちらを選ぶかは施主の判断だ。「とにかく仕事を取るしかない」。多くの同業者と同じく、売り上げの減少を補おうと単価が安くても仕事を引き受けたが、手元に残る利益はやはりわずかだった。

「どんぶり勘定」からの脱却

「どんぶり勘定」からの脱却が待ったなしになった。それまでは、多くの現場をこなしながらも、売り上げがどれぐらいあり、人件費や材料費といった経費がどれぐらいかかったかを、会社全体という単位でしか把握できていなかった。つまり現場1件ごとの原価管理ができておらず、最後に利益を確保できるかは、いわば風任せだった。

左官工事には、資材の運び込みや周辺の養生作業など多くの下準備も必要=原田左官工業所提供
左官工事には、資材の運び込みや周辺の養生作業など多くの下準備も必要=原田左官工業所提供

もう一つの問題は、左官は現場ごとに壁を塗る面積や形状、漆喰(しっくい)やモルタルといった材料が異なる「多品種小ロット」の仕事だということ。工期も半日で終わるものがあれば、数週間にわたるものもある。

壁に光沢を出すのか、打ちっぱなし風にするのか。施主が求める仕上がりもそれぞれ違うから、その現場に送り出す職人の人数に加えて、得手不得手に応じてどの職人を派遣するかも重要だ。仕上がりに満足してもらえなければ、手直しの再工事が必要になって利益が吹き飛んでしまうこともあるからだ。

苦境から抜け出すには、左官屋に合った原価管理システムが必要だ。業界では聞いたことのない試みだったが、東京都の補助金を活用しながら特注で製作した。
 
システムのおかげで、現場ごとに人件費や材料費などの経費を瞬時にはじき出すことができ、利益を出せた現場と不採算の現場を見分けられるようになった。それが分かれば、不採算の原因が、その現場に向いていない職人を派遣してしまったことにあるのか、それとも、もともとの受注額に無理があったのか、分析して対処法を考えることができる。初めて会社のことが把握できたような気がした。

職人が輝ける仕事を

会社のシステムが整う中で、考え方が少しずつ変わってきた。売り上げを確保するために、単価を下げた仕事も引き受けてきたが、「これって何のためにやっているのか? 誰も幸せにしていないのではないか」と感じるようになった。

左官職人を疲弊させているだけではないか。このまま価格競争の世界にいても、先細りは変わらないかもしれない。工業製品と競争するのではなく、もっと職人の腕を生かせる仕事はないだろうか。自問自答が始まった。

左官職人が塗り上げた飲食店のシックなカウンター=原田左官工業所提供
左官職人が塗り上げた飲食店のシックなカウンター=原田左官工業所提供

「店舗の仕事って最先端なんだよね」。知人の言葉にはっとさせられた。原田左官は、かねて飲食店や小売店の壁を塗る「店舗左官」を事業の柱にしてきた。父宗彦さんの代から、女性の左官職人を育成してきたこともあって、施主の要望を細かく聞き取り、それを生かしたデザイン性の高い壁塗りを得意としてきたのだ。

左官業界の中で、長らく店舗左官は格の低い仕事とみられてきた。ビルや住宅なら何十年も残る仕事になるが、店舗は数年サイクルで改装されてしまう。加えて、店舗の場合、閉店している深夜から未明しか作業ができなかったり、ビル内の店舗であれば作業用エレベーターを何往復もして重い漆喰やモルタルを運ばなければいけなかったりして、作業の負担が大きく、敬遠されることが多い。

しかし、店舗左官こそが職人の輝ける仕事だと思えた。喫茶店であれば、コーヒーの粉を塗り込めば薄茶色の壁になり、他にはない雰囲気を出せる。家具店では木片を壁に埋め込むことで、来店客との会話を弾ませることができるだろう。

施主が店舗に独自性を持たせたいと思えば思うほど、「左官職人の腕と発想が生きる。工業製品とは違う、左官だからこそのオリジナルの価値が出せる」。リーマン・ショックから2年。職人の技と施主の要望がかみ合う「新しい市場」が見つかった。

東京・新橋の飲食店「64バラックストリート」の天井や壁は、原田左官工業所が手掛けた=同社提供
東京・新橋の飲食店「64バラックストリート」の天井や壁は、原田左官工業所が手掛けた=同社提供

細い筋状の凹凸のある「くし引き仕上げ」に、木目を浮き出させた「木目モルタル仕上げ」、小さな丸石を敷き詰めた「玉石洗い出し仕上げ」。ザラザラしたコンクリート打ちっ放しもあれば、ツルツルピカピカの「イタリア磨き」もある。左官職人の手にかかれば、希望通りの雰囲気と発色の壁を作れる。原田さんは「左官の可能性は無限だ」と感じている。

しかし、多くの人はそのことを知らないし、実際に手に取ってみないと、仕上がりの風合いや触り心地も分からない。そこで、原田左官は2014年、文京区に100種類以上のサンプルをそろえた「サカンライブラリー」を開設。商談をスムーズに進めると同時に、左官職人の技を広く知ってもらうための場だ。

今では、東京スカイツリーの下にある商業施設「東京ソラマチ」、ヒルトンホテルのレストラン、高級ブランド店など、独自性と高級感を出したい店舗に次々と原田左官の技術が採用されている。それを支えるのは、やはり職人たちの腕だ。

原田左官工業所の職人が塗った「塗り版築仕上げ」の壁=ミサワホーム新百合ケ丘展示場で、原田左官工業所提供
原田左官工業所の職人が塗った「塗り版築仕上げ」の壁=ミサワホーム新百合ケ丘展示場で、原田左官工業所提供

自社の戦略を確立した今、残された課題は時代に合った職人の育成になった。それは、「家業」だった原田左官に、会社として持続していくための仕組みを整える試みでもあった。

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左官職人じゃない異色社長が挑んだ「若手育成改革」

小石を埋め込んだ玄関ポーチを仕上げる職人たち=原田左官工業所提供
小石を埋め込んだ玄関ポーチを仕上げる職人たち=原田左官工業所提供

左官職人の育成は2007年に社長になった頃から、ずっと悩みの種だった。全盛期には全国で30万人を数えた左官職人は、現在では6万人前後に減ったとされる。

建築市場の縮小や安価なビニール製壁材の普及に加え、「技術は見て覚えろ」式の育成法に若者が付いてこられないことも大きい。若手職人が育たないから、平均年齢60歳超と言われる左官職人の高齢化がますます進むという悪循環に陥っている。

原田左官工業所の原田宗亮社長=東京都文京区で、手塚耕一郎撮影
原田左官工業所の原田宗亮社長=東京都文京区で、手塚耕一郎撮影

原田左官でも、かつては毎年2~3月になると、高校の先生が生徒数人を連れて来るのが通例になっていた。「雇ってください」と頼まれ、その場で採用を決めた。慢性的な人手不足だったから助かったが、本人たちは左官職人になりたいというより、その時期まで就職が決まらず、なんとなく先生に連れて来られるケースが多かった。だから半分近くの若者がやがて離職していった。

一方、原田左官は先代の父宗彦さんが経営していた頃から、女性職人の育成に力を入れてきた。壁を一気に塗りあげる体力が必要で、長く「男の職場」と思われてきた世界だが、女性の左官職人が現場に出ると、ことに目をみはった。

原田左官工業所で活躍する女性職人=同社提供
原田左官工業所で活躍する女性職人=同社提供

「原田左官は女性でも職人になれる」と聞きつけ、造園や出版、製造業など、全く異なる業界から転職を希望する女性も次々にやってきていた。

自分の仕事が形になって残る――。画一的な工業製品があふれる中で、ひとつひとつがオリジナルな左官の仕事には、人々を引きつける魅力がある。ならば、1000年以上続く、この技術を途切れさせたくない。そのためには、今の時代に合った職人の育成法を確立しないといけない。

高級感のある店舗や住宅など、施主のこだわりに応える左官工事に活路を見いだした原田左官にとっては、若者や女性の持つセンスが必須だった。加えて、祖父や父親から引き継いだ「家業」を、人材育成の仕組みの整った「会社」に脱皮させるためにも必要な改革だった。

東京・恵比寿のレストラン。天井には虎目石を入れ込み、星が輝くような左官仕上げにした=原田左官工業所提供
東京・恵比寿のレストラン。天井には虎目石を入れ込み、星が輝くような左官仕上げにした
=原田左官工業所提供

「若手が育たない」…原因は教え方にあり

若手が育たないのは、本人の責任ではない。それが原田さんの問題意識だった。やる気満々で見習い工になっても、最初の1年ほどは、材料の運搬や片付けといった下働きばかりで、鏝(こて)を持つ機会はほとんどない。技術の習得にしても、先輩職人の仕事ぶりを観察するのがメインで、たまに先輩職人の手があいた時に「ちょっとやってみるか」と言われて鏝を握らせてもらうというのがよくあるパターンだった。

教え上手な職人もいれば、そうでない職人もいる。職人によって教え方がバラバラで、かえって見習い工を混乱させてしまうこともある。たまたま面倒見の良い先輩職人につけば、次第に技術が身につき、左官職人の楽しさを感じて、ますます腕を上げていける。しかし、運悪く教えるのが苦手な職人に当たってしまうと、技術が身につかず、「職人になる」という気持ちがしぼんで離職してしまう。

 つまり若者が長続きしない原因は、「本人の努力や我慢が足りない」のではなく、行き当たりばったりのやり方で「一人前になれるかどうかは本人次第」という昔ながらの育成法にある。

どうするか。答えはなかなか見つからなかった。職人の中から講師を選んで講習会を開いたものの、職人も若手も毎日、現場の仕事が優先だから定着させられず、若手育成はどうしても後回しになってしまった。

遠くの同業者が教えてくれた「モデリング」の手法

ヒントをくれたのは、遠くの同業者だった。業界団体の一般社団法人「日本左官業組合連合会(日左連)」の青年部を通じ多くの同業者と知り合ったが、近隣の同業者には相談しにくい自社の課題や悩みも、遠方の同業者になら打ち明けられた。そうした相談相手の一人、中屋敷左官工業(札幌市)の中屋敷剛社長が、自社で導入した「モデリング」という手法を教えてくれた。

モデリングの手法を用いた若手職人の育成=原田左官工業所提供
モデリングの手法を用いた若手職人の育成=原田左官工業所提供

モデリングとは、最高のお手本をモデルにマネをすること。まず動画を見て一流職人の動きを記憶し、それを手本にしながら自分で壁を塗ってみる。完全にコピーするように動きをマネしていく。

その様子を動画で撮影しておき、一流職人と自分の動画を並べて見比べることで、職人と自分の動きとではどこが違うのか、アドバイスを受けながら確認する。これを繰り返すことで、どこをどうマネすれば一流職人に近づけるかが見えてくる。

この手法を持ち帰った原田さんは、本格的な人材育成プログラムの作成に着手。2011年、入社したばかりの見習い工を対象に、最初の1カ月はモデリングを中心とした壁塗りのトレーニングを始めた。

それまでは1年たってようやく握らせてもらえた鏝を、入社後すぐに扱わせることに「未経験者には無理」「遊んでいるようなもの」と猛反発を浴びた。

ところが、実際に始めてみると、若者たちの吸収は予想以上に早く、習得に半年かかっていた技術を、わずか1カ月で教えられた。壁塗りという左官職人の醍醐味(だいごみ)に触れた上で現場に出て行くから、先輩職人の現場での動き方や壁の塗り方を観察する目も違ってくる。

4年間の訓練を終え「年季明け」の披露会で花束を受け取る若手職人=原田左官工業所提供
4年間の訓練を終え「年季明け」の披露会で花束を受け取る若手職人=原田左官工業所提供

しかし、これはまだ左官職人になるための最初の一歩だ。見習工を職人の「入り口」に立てるところまで育てる4年間の訓練プログラムも組んだ。先輩職人を教育係に付けて技術だけでなく「働く」ということについても教え、2~3年目から一人で現場に出たり、現場リーダーを任せたりしながら段階を踏んで育成していく。4年間の訓練を終え、一人前の職人の仲間入りをする「年季明け」の時には、社員だけでなく、両親や家族、取引先などを呼んで盛大な披露会を開く。

これは原田さんが会社の中で一番大切にしている行事だ。若手職人が家族や先輩職人たちに感謝の気持ちを伝え、職人としての決意表明をする重要な門出だからだ。かつて40%ほどもあった離職率は5%にまで低下し、職人の若返りにもつなげることができた

自分が「会社のフタ」になってはいけない

原田さんは左官職人ではない。26歳で入社した時は「名人」を目指したが、工事の受注や職人の派遣を差配する番頭のなり手が少なく、半年で職人修業を切り上げざるを得なかった。しかし、自分が職人でないからこそ、従来の育成法を見直すことができたと考えている。

自分が長年の修業を経ていたとしたら、「つらくて当たり前」と古くからの育成法に疑問を感じず、モデリングに出合っても「自分が教えられたやり方とは違う」と切り捨てていた可能性は十分ある。今思えば「自分が職人だったら、会社の成長にフタをしてしまっていたかもしれない」と感じている。
しかし、それは職人の否定では全くない。製造業の会社の根っこが製品にあるように、左官屋の根っこは職人の技にある。原田左官の経営ミッションのひとつは「職人を守る」だ。

「年季明け」の披露会では、若手職人にそれまでの歩みをまとめた冊子を手渡す=原田左官工業所提供
「年季明け」の披露会では、若手職人にそれまでの歩みをまとめた冊子を手渡す=原田左官工業所提供

創業者の祖父辰三さんは根っからの職人だったが、50代で肺を患ってから現場に出られなくなった。職人技を発揮できる場を失った辰三さんのさみしそうな背中をよく覚えている。

時代が変わっても、年を取っても、職人が輝ける場所をつくる――。従来のやり方にこだわらず、会社としてさまざまな仕組みを整えていくことが「職人を守る」ことであり、それを実現するのが経営者としての自分の責任だと考えている。

原田左官工業所の原田宗亮社長=東京都文京区で、手塚耕一郎撮影
原田左官工業所の原田宗亮社長=東京都文京区で、手塚耕一郎撮影

目下の課題は、中堅職人のさらなる技能向上と、ベテラン職人に若手の教育係に回ってもらうなど、末永く活躍してもらえる仕組み作りだ。職人ではない異色社長が率いる原田左官の挑戦は続く。

(初出:毎日新聞「経済プレミア」2021年10月19日~11月2日)

わたしのファミリービジネス物語」では、地元に根ざして、自らの力を磨くファミリービジネスの経営者や後継者、起業家の方々を紹介していきます。波瀾(はらん)万丈の物語には、困難を乗り越える多くのヒントが詰まっています。
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