見出し画像

「もっと佐賀を知りたい」という探究心が発信力につながっている

2021年10月、佐賀県のあらゆるモノ・コト・ヒトのハブとなる地域商社「さぎんコネクト株式会社(以下、さぎんコネクト)」(佐賀銀行100%出資)が設立された。さぎんコネクトは、北部九州初の金融機関全額出資の地域商社で、魅力あふれる佐賀のよかもん(佐賀弁で「良いモノ」)を掘り起こし、生産者の収益アップや地場産業を盛り上げていく

「なぜ銀行が地域商社を設立したのか」

佐賀銀行=同社提供
佐賀銀行本店

彼らはどんな思いで新しい事業展開へと進んでいくのか。今回お話をうかがった八田広幸さんと太田紹彦さんは、さぎんコネクトのキーマンである

「よかばいマルシェ」やクラウドファンディングサイト「YOKATO!」、YouTubeの「さぎん よかよかチャンネル」など、事業領域は多岐にわたり、そのどれもが地域の魅力発信につながっている。地方銀行として、銀行らしからぬ取り組みを行う背景には、一体、どんな原動力が隠れているのだろうか。

佐賀発NAGARE編集部
この連載「NAGARE(ナガレ)」は、東京から佐賀に移住して、自分の「したい」を形にする「自分地域活性化」を行いながら、人と人のエネルギーをつなぐ「着火屋」こと山本卓とその仲間たちが、地方で仕事をする〝人〟にフォーカスをあて、自分で自分の人生の〝流れ〟をつくり続けるための「原点」や「仕事をやり続ける原動力」を取材し、これからの地方ビジネスを考えるきっかけを発信していきます。

#わたしの原動力
#田舎暮らし
#佐賀
#地域活性
#地方移住

始まり:自分が本当にやりたいことって何だろうか

取材中の太田紹彦さん(左)と八田広幸さん
取材中の太田紹彦さん(左)と八田広幸さん

——(堤)最初に、お二人の経歴を教えてください。

(八田)私は佐賀県出身で、高校卒業後に佐賀銀行に入行しました。実は30年ほど働いて、一度、銀行を退職したんです。退職後は、民間の会社に転職し、教育関係やコンサル関係の会社で働いていました。2年ほどたった時に、佐賀銀行の知り合いに会う機会があり、地域商社を設立するという話を聞いたのが今に至るきっかけの一つです。

(太田)私も出身は佐賀で、関西の大学に進学し、佐賀銀行にUターン就職しました。入社後は県外の配属が続き、14年間ほど働いた後に、さぎんコネクトの社内公募を知り、佐賀の役に立てるいい機会だと思い、応募したのがきっかけです。

——お二人とも、もともとは銀行員として働かれていたのですね。八田さんは一度、佐賀銀行を退職されたとのことですが、戻るまでにどんなことがあったのでしょうか。

(八田)本部で地方創生や商談会、ビジネスマッチング、6次産業化や農業分野などに携わっていました。そして久しぶりの営業店に次長で配属になった時に、本来の自分のカラーが出し切れていない当時の自分が嫌だったんです。自分を振り返ったときに、自分がやりたいことは、こういうことじゃないなと思うところがあって、人生一度きりだし、辞めようと決意しました。退職後は銀行員に会うのも決まりが悪いし、できるだけ会わないようにしていましたね(笑い)。

ある日、久しぶりに佐賀銀行の同期や本部時代の同僚数人でご飯に行く機会があって、地域商社を立ちあげることになったと聞きました。そのことは素直にうれしかったので、「なにかあったら手伝うし、応援しているからね」と伝えました。

でも、次に会った時に、なんと「一緒に地域商社やらないか?」と誘われたんです。退職前の時点で、既に地域商社を作ろうという話があって、その企画を担当していた私も携わっていました。他県の地域商社を視察し、ビジネスプランの策定までしていましたが、当時の銀行は規制が厳しくて、実現には至らなかった。

その悔いが残ったまま辞めていましたし、離れていた2年間も心のどこかで地域商社のことが気になっていて、たまに佐賀銀行に戻る夢なんかも見ていました。その時は、まさか本当に戻るなんて思っていなかったですけどね。

転機:それでもやっぱり、この地域商社をやりたかった

佐賀インターナショナルバルーンフェスタ=さぎんコネクト提供
佐賀インターナショナルバルーンフェスタ=さぎんコネクト提供

——ずっと気にかけていた地域商社のお話をどう受け止めましたか?

(八田)最初は断りました。銀行も自己都合で辞めたし、当時働いていた会社に対して何の不満もなかったので。でも、何度も会ううちに、誘ってくれた上司、同期、本部時代の仲間たちにも親近感がわいてきちゃって、しまいには悔いの残っていた地域商社設立の話だったから、「待てよ、やってみるか?」と。

もちろん、戻るのには相当な勇気と決断が必要でした。当時働いていた会社の社長とも話し合いをし、何度も強く反対されました。それに、「あんなに嫌だった佐賀銀行にどうして戻るの?」と妻からもかなり反対されましたね。銀行を辞める時も、戻る時も当時は反対されましたし、かなり悩みました。

——そんなに反対されていたのに、戻る決意に至った理由とは何だったんですか?

(八田)自分を突き動かした一番の理由は、「佐賀銀行のさぎんコネクトとして地域商社をやりとげたい」という思いでした。かなりのプレッシャーもありましたが、いざ戻った時に一番うれしかったのは、生産者や事業者さんたちに「おかえり」とあたたかく迎えられたことです。また一緒に仕事ができると思うと本当にうれしかったです。

——太田さんはさぎんコネクトの社内公募に応募したとのことですが、何かきっかけがあったのですか?

(太田)私は大学の4年間、京都に住んでいました。その頃、空を眺めていて何か、寂しさを感じていたんです。子供の頃から佐賀の冬の西の空を見上げるとバルーン(気球)が飛んでいて、その風景が大好きでした。だから、「佐賀に戻って就職したい」といつしか考えるようになっていたんです。

その後、佐賀のために働きたいと佐賀銀行から内定をもらいました。しかし、実際に入社し、ふたを開けると最初の配属が福岡市の箱崎で、その後も春日、小倉、佐世保へと……。佐賀を完全にスルーしてずっと県外。いつしか、自分は地元である佐賀の役に立っているのだろうかと考えるようになっていました。

そんな時にさぎんコネクトの公募を見て、やっと機会が来たと思い、14年間、佐賀のために仕事ができなかったもどかしさというバネが、ぎゅっと縮まった状態からはじけるような感覚がありました。

——そんな中でいざ、さぎんコネクトが設立されて、どんなスタートになりましたか?

(八田)まずは、「帰ってきたよ」「これから新しい地域商社を作るよ」って事業者さんに会いに行きたかったけれど、実際は、その前にやるべきことが山積みでした。規定作成やロゴのデザイン、机やパソコンの準備など、ゼロからのスタートでしたね。

でも、そこで民間で働いていた時に身についた総務・会計処理や労務関係といったスキルが生かされて、このために一度銀行を離れたのかもしれないと思いました。そして、メンバーも集まり、やっと何か事業を始められる段階になった時に、「マルシェをやろう」となったんです。

——なぜマルシェだったのでしょうか?

(八田)マルシェを開催することで、佐賀にこういうものがあるんだと知ること、人とつながり、仲良くなることが大事なんです。そこがないと次の展開に行けないと思っています。

1回目のマルシェもすべて手探りでした。マルシェ自体やったことがなかったので、知り合いの事業者さんにたくさん声をかけて、マルシェをやるうえでの出店料や手数料の仕組みなども聞きました。やっぱり人なんですよ

(太田)さぎんコネクトは、もともと卸売りを主業とすることを念頭に置いて設立された会社なのですが、生産者さんとのつながりがないことには成り立ちません。なので、マルシェというフェース・トゥー・フェースの場を設けることで、生産者を知り、つながることや、消費者の反応をリアルタイムで感じることがゼロから事業を始める私たちにとって必要なんです。もちろん事業者さんの商品をいろんな人に知ってもらいたい。でも、そのためには私たちがまず知ることが初めの一歩でした。

——私も以前、県内のプリン店を集めたプリンマルシェにお邪魔しましたが、雨の中、大盛況でしたよね。

プリンマルシェ=佐賀銀行提供
プリンマルシェ=さぎんコネクト提供

(八田)プリンマルシェを開催することになった背景には、「佐賀をプリン県にしよう」と活動する大富藍子さん(佐賀県みやき町の大富牧場 フライング・カウを経営)との出会いがありました。「プリンかあ、面白いな」と思っていたところ、ある日、佐賀新聞の1面に、江崎グリコさんの広告が出たんですよ。

江崎グリコの創業者、江崎利一氏は佐賀県出身で、そこには「全国のプッチンプリンを作っている工場は、佐賀と東京にしかない」ということが書いてありました。それだけで、ちょっと感動しちゃったんです。これは面白いぞと思って、調べたら、佐賀県のプリン消費量が全国2位だと知り、いろんな人につないでもらって、江崎グリコさんと「プリン県さが(佐賀県内のプリン店でつくる団体)」とのプリンマルシェが実現しました。

原動力:止まらない探究心とあふれる佐賀愛があるから

プリンおじさんで親しまれている八田さん=佐賀銀行提供
プリンおじさんの愛称で親しまれている八田さん=さぎんコネクト提供

——お二人がそこまで佐賀に尽くす原動力とは何なのでしょうか?

(八田)佐賀の人って、「佐賀は何もない」とよく口にするんです。実は、私も最初は同じことを思っていました。当時、東京から来るお客様を対応していて、いろいろと佐賀のことを聞かれるのですが、何も答えられなかったんです。「佐賀ってなんもなかですよねえ」って。

でも、その隣で、佐賀の魅力をすらすらと語っている上司の姿を見て、「すごい! 佐賀ってこんなにネタいっぱいあったの!」と驚いたんです。その後も、農業者の方のお話を聞く機会があったりして、知れば知るほど面白くなって、興奮しっぱなしです。

さぎんコネクトを通して、佐賀のことをもっと知りたくなる探究心が原動力なのかもしれません。佐賀県は「何もないわけじゃない、こんなに面白い魅力がいっぱいあるんだ」ってことを県外の方にも知ってほしいんです。

(太田)何もないって言いながら、本当はいろいろあるんです。でも、なかなか発信できていないのも事実で。5年ほど前に、全国の地方銀行員が東京に集まって研修があったんです。その研修の中で、都内にある、地元のアンテナショップを視察するワークがあったんですが、その時に佐賀県のアンテナショップが都内に一つもないことを知りました。

佐賀のいいものを東京の人にもっと知ってほしいのにと思いましたね。14年間、「佐賀のために何かやりたい」と思いながらも何もできなかった、その反動で今活動できています。「裏方でいいから県外の方に佐賀の魅力を伝える仕事がしたい」。それが私の原動力だと思います。

地方で仕事をする:すべては人との縁で成り立っている

(八田)すべては「人」なんですよ。マルシェは人脈で集まっているし、YouTubeもクラウドファンディングも事業者さんに教えてもらいながらやっているんです。「浅く広く」でもいいから興味を持って、知っていくことが大事なんです。そこで、もし分からないことがあれば、誰かに聞けばいい。聞いて、またそこで佐賀のことについて深く知れればそれでいいと思うんです。

(太田)私が佐賀で働きたいなと思ったきっかけも、「人」かもしれません。私の実家ではずっと「佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」に出場する海外選手のホームステイ受け入れをしていて、大学最後の年に、初めて全日程を通して選手に同行してみたんです。

その時に気球の離着陸地である田んぼや畑の地主さんに、あいさつ回りをする機会が何度もあったんですが、みなさん好意的どころか、「がんばってね」と応援までしてくださって。ああいうフェース・トゥー・フェースのコミュニケーションが生まれるのって、佐賀だからこそだよなあと。佐賀で働こうと決めてよかった、間違ってなかったと感じた瞬間でしたね。

アドバイス:地方は、誰もが主役になれる場所

——最後に、佐賀でビジネスを始めてみたいと思っている人やUターン就職を考えている若者に向けて、佐賀で働く魅力を教えてください。

(八田)佐賀は、「誰もが主役になれる場所」です。何か始めたいと思った時に、佐賀であれば、いつでも主役になれるし、それを応援してくれる仲間がたくさんいます。都会にはない、隠れた魅力を探しながら、自分の夢の実現に向かえる場所だと思います。頑張れば主役になれる、その思いを持てば、ここでかなえられると思います。

——本日はお忙しい中、お時間いただきありがとうございました!

八田広幸(やつだ・ひろゆき)
1971年9月生まれ。佐賀県出身。YouTubeの「さぎん よかよかチャンネル」では「プリンおじさん」というキャラクターで親しまれている。「面白く、楽しく」がモットー。佐賀銀行入行3年目に佐賀県初の職場吹奏楽団を設立し、九州アンサンブルコンテストにも佐賀県代表で9年連続出場、入行式で行歌を演奏したり、お茶の作法を学んだりと、趣味も多岐にわたる。

太田紹彦(おおた・あきひこ)
1985年3月生まれ。佐賀県出身。関西の大学に進学後、Uターン就職で佐賀に戻る。熱気球パイロットの資格を持ち、2022年には「佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」で、佐賀銀行のバルーンパイロットとして出場した。

ライター:堤優衣(つつみ・ゆい)
佐賀市出身。高校卒業後に関西の大学に進学し、テレビを通した日本文化の報道の影響をテーマに研究。大学卒業後には、出版取次会社へUターン就職し、現在は、佐賀県を中心とした九州の各地域で、本と人とのタッチポイントを増やすため、本を活用した空間づくりやイベントを企画している。

佐賀発「NAGARE」の別の記事を読む


▼ Refalover(リファラバ)とは?


この記事が参加している募集

この街がすき

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

リファラバの記事をご覧いただきありがとうございます!編集部へのお問い合わせはこちらよりお願いします。